2006年1月26日 (木)

「道」山村暮鳥

  おうい雲よ
  ゆうゆうと
  馬鹿にのんきさうぢゃないか
  どこまでゆくんだ
  ずっと磐城平の方までゆくんか

詩人・山村暮鳥の「雲」という詩。アニメ「巨人の星」で、主人公「星飛雄馬」の初恋のひとであり、病気のために早世する少女「美奈」が暗誦していた詩だ。もはや30数年も前、小学生の頃のアニメなのになぜかよく憶えている。

ところが、先日、原作のマンガ版の方を読み返してみると、この詩が出てこないので驚いてしまった。あれ? と思いネットで検索すると、どうやらアニメの方に「雲」の詩が出てきたのは間違いがないらしい。原作のマンガ版でも、美奈は、ジャン・コクトーの詩、

  私の耳は貝のから
  海の響をなつかしむ  (「耳」・堀口大学訳)

を暗誦したりしているので、確かにそれほど不自然なことではないのだが、飛雄馬と美奈が出会い、死別するのは宮崎のはずで、なぜ「磐城平」の詩が出てくるのかよく分からない。単に制作スタッフの中にこの詩が好きな誰かがいたということなのだろうか。

思い返すと、同じ頃のテレビのドラマか何かで、高村光太郎の詩の「智恵子は東京には空がないと言ふ」で始まる一節も朗読されていたようなおぼろげな記憶がある。どうやら、この頃(昭和40年代くらい)までは「教養」の一部としての「詩」というものがまだ存在していたような気がするのだが、どうだろう?

山村暮鳥は、1884(明治17)年生まれ。前回の三好達治よりも10数歳年上で、前々回の中原中也とは20歳ほども違う。完全にひと世代上という感じだ。

処女詩集「三人の処女」1913(大正2)年刊は、まぁ普通の詩集という感じ。暮鳥30歳のとき。

2番目の「聖三稜玻璃」1915(大正4)年刊は、うって変わって全篇これ「実験詩」という趣きの詩集で、いま読んでもうわぁ!と思うくらいだから、大正時代の初めにこれを読んだ人はぶったまげたのではないかと想像する。

  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  かすかなるむぎぶえ
  いちめんのなのはな
  
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  ひばりのおしやべり
  いちめんのなのはな
  
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  いちめんのなのはな
  やめるはひるのつき
  いちめんのなのはな。

有名な「いちめんのなのはな」(「風景」)の詩も、この詩集に入っているが、実はこれなどはまだ穏やかな方だ。詩集冒頭の詩には「殺人ちゆりつぷ」なんて、なんだか初期仮面ライダー的なセンスの詩句もあったりしてうれしくなってしまう。

ところが、次の詩集からは、またもうって変わって「人道主義的な詩」(と言っていいのかはよく分からないが、とにかくそんな感じの比較的分かりやすい詩)を書く詩人に180度変わってしまう。たとえば、上の「雲」のような詩だ。そして、この「雲」の詩が収められた詩集「雲」(こちらは詩集のタイトル)の校了を終えて間もなく、1924(大正13)年末に病没する。つまり、まだ40歳そこそこの若さでだ。

詩人としての活躍の期間はわずか10年ほど。詩集「聖三稜玻璃」の後にも多くの詩集が出ているので、何となく長生きしたような錯覚をしていて、「聖三稜玻璃」は「若気のいたり」的な感じかと漠然と思っていたのだが、実際は30歳以降の詩集で、それからわずか数年で亡くなっているとなると、少しイメージが変わってくる。そうか、こんな短期間のうちのことだったのだ。

「聖三稜玻璃」の次の詩集「風は草木にささやいた」(1918年刊)に「道」という短い詩が収められている。ぼくは結構好きな詩だ。

  道は自分の前にはない
  それは自分のあしあとだ
  これが世界の道だ
  これが人間の道だ
  この道を
蜻蛉もとほると言へ

出だしは高村光太郎の「道程」の冒頭「僕の前に道はない」を思わせるのだが、よく読むとこの詩は「道程」ほど明解ではない。
1行目で「前」を見ているかと思えば、2行目に「あしあと」と来れば「え?後ろ?」 … というような「ねじれ」があったり、3行目以降は1行ごとに飛躍があって、何だか圧倒されて有無を言えなくなったところに、最後が「この道を蜻蛉もとほると言へ」で、奈落の底へ追い落とされてしまうような気がする。それでも、わけが分からないながらも、この最後の1行がこの短詩を詩たらしめているのは認めざるを得ない。こういう詩は意味を説明しようとすると、とたんにつまらなくなる。「道程」は教科書に載っても教えやすいが、この詩はたぶん無理だろう。

そして、「聖三稜玻璃」の実験詩群と「雲」の間に、この「道」という詩を置くと、さながらミッシング・リングを見つけたような気になる。これはぼくだけかも知れないが…。すると今度は「蜻蛉」というのが気になってくるから不思議だ。そう思いながら、詩集を眺めていると、晩年の「雲」と同時期の詩に「とんぼ」という詩があるのに気づいた。

  一ばんぢう
  自分は小さな蜻蛉であった
  そしてとろとろゆめみてゐたのは
  どこかの丘の
  穂にでてゆれてる
       芒であつた

やはり何だかいいなぁと思ってしまう。三つ子の魂百まで … などと言うが、小学生のときに「巨人の星」で刷り込まれたものは、案外根深いものがあったのかも知れないと思ってしまうこの頃だ。

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2006年1月22日 (日)

「昨日はどこにもありません」三好達治

ぼくが高校生の頃、三好達治の詩集はいろんな出版社の文庫に入っていて(この詩人は詩歴が長くて出した詩集も多い人だから)、出版社ごと・編者ごとに収録作品には結構な差があったような気がする。どの文庫を買おうか、かなり迷った記憶がある。

結局、ぼくは旺文社文庫版を買ったのだが、その巻末に「体操詩集」の村野四郎が解説を書いていて、「近代の日本詩人のうちで、三好達治ぐらい幅広い愛読者層をもっている詩人は、ほかにあるまい。生前からそうであり、死後いよいよその傾向はいちじるしい」と述べている。奥付には1969年初版とある。三好の没年が1964(昭和39)年だから、その5年後というところか。

1960年生まれのぼくの同年代の知り合いには、すでに三好達治の詩の愛読者はほとんどいなかったが、それでも、高校時代(1970年代後半)の現国の教科書だの、試験問題集だのには、三好達治の詩はかなりの頻度で登場していた。他の著名詩人に比べてもその数は圧倒的に多かった。現在のことは分からないが、多分もうそんなことはないだろう。ぼくらの時代が最後の方だったに違いない。

ちょっと脱線だが、これはもちろん三好達治の人気が衰えたというのとは少し違う。あまりにも「詩そのもの」が顧みられなくなったのだ。

まったくの当てずっぽうだが、1970年代初め、深夜ラジオが人気を集め、フォークやロックなど若者向けの音楽が広まったことは、その原因ではなくても、傾向を助長したには違いない。その「歌」たちには、十分な「詩」があったからだ。また、現在は人気バンドでテレビには出ないというのも稀だろう。テレビ(や映像)が全盛になれば、そこに発信されるものに「詩」は十分に含まれる。含まれていくようになる。誰もがジンときたり、励まされたり、人生や世界や美について考えたりするわけだ。

人気のあるメディアが変われば、そのメディアに適した形式で「詩」的なものは発信される。その意味では「ネット詩」なるものにも何らかの可能性があるような気がする。だが、今のような(書き言葉による「詩」を掲示板に書き込んだだけのような)ものではないだろう。それがどういうものになるかは興味がある。だがぼくがそれに与することはないだろう。

話は戻って、三好達治の詩について。

三好達治。1900(明治33)年生まれ(中原中也よりは7歳年長になる)。
最初の詩集は「測量船」で、1930(昭和5)年刊。30歳のとき。収められた作品は20代のものが大半だろう。タイトルの「測量船」も、まだ若い気鋭の詩人が詩の世界の広がりや深度を測りながら進みはじめたという感じで(本当にそうかどうかは知らないが)かなりカッコいい。現在に至るまで「日本の名詩集」のひとつに必ず挙げられる詩集のはずだ。

だが、三好達治自身は、後年、世評の高い自らの処女詩集をむしろ否定的に語ることが多かったと言う。三好の友人で、詩人としても有名な丸山薫によれば、三好は学生時代から「俳句や短歌、あるいは漢詩的詩興の方」に関心が強く、「彼自身の作品はしだいに古典的資質を示していき、ついには現代詩を超えた日本的詩人となった」と言うのだが、そういう晩年の三好からすれば、20歳前後の「若書き」の作品には、思うところも少なくなかったのだろうか。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

たった2行からなる「雪」という詩。詩集「測量船」冒頭の4作品は特に名高く、そのまま高校の教科書に載っていたと思うが、これもそのうちの1作だ。いま読んでも、ここには思想も人事も喜怒哀楽の感情もない。まったくない。あるのは「詩」だけ。「詩」以外の何ものでもないような作品だ。こういう作品はそんなにあるものではない。

三好達治という人は、生涯を通じ、すべての作品で、ではないが、その「ベース」となるところでは、詩に思想や人事や喜怒哀楽の感情が混ざることを極力排したかった人ではないかと思う。後年の彼の詩集に占める「短詩(四行詩)」の多さは、そういう理由であるかも知れない。一方で、何が「詩」か(あるいは「詩」でないか)という難しさには常につきまとわれ続けたのではないかとも思う。おそらく若い頃の作品にはまだ「混ざっているものが多すぎた」と感じていたのだろう。

旺文社文庫版には「測量船拾遺」という章題で3篇の詩が載っている。「拾遺」というのは、後年の詩人に否定された若い日の詩人が、なお詩集に取り残した作品ということだろう。「若書き中の若書き」ということになろうか。そのひとつに「昨日はどこにもありません」という詩がある。当時ぼくが見比べた各社の文庫版のうち、この作品が載っていたのは旺文社文庫版だけで、実は、それだけが理由で旺文社文庫版を買ったようなものだった。

  昨日はどこにもありません
  あちらの箪笥の抽出しにも
  こちらの机の抽出しにも
  昨日はどこにもありません
  
  それは昨日の写真でせうか
  そこにあなたの立つてゐる
  そこにあんたの笑つてゐる
  それは昨日の写真でせうか
  
     (中略)
  
  昨日はどこにもありません
  昨日の部屋はありません
  それは今日の窓掛けです
  それは今日のスリッパです
  
     (中略)
  
  昨日はどこにもありません
  そこにあなたの立つてゐた
  そこにあなたの笑つてゐた
  昨日はどこにもありません

この詩は、決して「名作・傑作」ではないと思う。だが、この作品はいい。三好達治の詩を読むときに、この詩を念頭に置くと、その詩業の全容が違って見えてくるような気がする。少なくともぼくにとってはそうだ。

ところで、ぼくがこの詩に出会う少し前、1970年代の半ば頃、「神田川」でヒットを飛ばしたフォークグループの「かぐや姫」が次のような歌を歌っていて、ぼくはこの歌も好きだった。曲は南こうせつ。作詞は伊勢正三で、二人ともまだ20代の半ばだった。

  きみが笑ってる きみが走っている
  アルバムの中 ひとつふたつみっつ
  思い出見つけ わざとむなしくなるのさ

                    (「今は違う季節」)

十代半ばのぼくのなかでどっちがどっちを好きになる原因になったかはよく分からないが、およそ半世紀を隔てていても、両者には共通するものがあるように思われる。そんなわけで、晩年の三好達治の詩もまた、ぼくにとってはそれほど遠い存在ではないはずだという気持ちがどこかにある。おそらく「詩とは何か」について考えながら読むとき、それは別の読まれ方が可能なはずだ。旺文社文庫版の詩集は、すでに30年近くを経たが、今もまだぼくの本棚の目立つところにある。

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2006年1月20日 (金)

「時こそ今は……」中原中也

先日の朝日新聞の夕刊に、中原中也の第一詩集(にして生前唯一の詩集の)「山羊の歌」の校正刷りに、中也自身がこと細かに赤を入れたものが見つかったという記事が掲載されていた。昭和7年(1932年)のものらしい。もう70年以上も前。ぼくの親父やお袋がようやく立ち上がって言葉を喋り始めてた頃だ。角川文庫版の「中原中也詩集」の巻末の年譜で確認してみると、中也は25歳。若い。

新聞の記事によれば、その校正刷りは「句読点やルビから、……の点の大きさや数、――の太さに至るまで、赤鉛筆や赤ペンで細かく修正されている」という。何となく分かるような気がする。山口市の中原中也記念館に収められているらしい。一度見てみたいものだ。

また、代表作のひとつとされる作品「汚れつちまつた悲しみに…」の第2連と第3連がこの校正の段階で入れ替えられていることも分かったらしい。

ぼくが中也の詩を初めて知ったのが中学3年のとき。前の年にふられた女の子と同じ名前のヒロインが出ていて何気なく読んだ雑誌の小説に、たまたま中也の詩が載っていた。それが「汚れつちまつた悲しみに…」だった。4行4連の小品。各連の1・3行目は「汚れつちまつた悲しみは」または「汚れつちまつた悲しみに」となっている。リフレインの多い、音楽のような詩だ。最近の詩では、ここまでリフレインを多用したものを見ることは少ない。

中也という人は、自分のなかに生まれた言葉を心の中のある「空間」に響かせてみて、その響きを何度も確かめながら詩を組み上げていくような感じではなかったかと思う。ちょうど音楽家が思いついたメロディを実際に弾いてみて、その響きを確かめながら曲を仕上げていくように。そして演奏しながらも少しずつより良い響きを求めて曲を変化させていくように、何度も何度も自分の詩の響き具合に耳を傾け続けたのだと思う。

25歳とは言え、早熟と言われた中也なので、その作品は多様だ。17歳にして「長谷川泰子」という女性と京都で同棲し、翌年にはともに上京。しかし1年も経たずに別離。よく知られているように、泰子は後に評論家として大成する小林秀雄のもとへ去る。うろ憶えだが、このとき中也は泰子の引っ越しを手伝ってやり、その後、泰子が小林秀雄と別れてからも、何かと世話を焼き続けたという。言い方を変えれば未練たらたらで情けないことこの上ない。だが、その未練の心がなければ、詩集「山羊の歌」はあれほどの魅力を持ち得なかったろう。また、そういう「執着」の仕方をする人でなければ、飽くことなく自身の詩の響きに耳を澄ませるということもできなかったに違いない。

22~23歳の頃の作品に「時こそ今は…」という詩がある。

  時こそ今は花は香炉に打薫じ、
  そこはかとないけはひです。
  しほだる花や水の音や、
  家路を急ぐ人々や。
  
  いかに泰子、いまこそは
  しづかに一緒に、をりませう。
  遠くの空を、飛ぶ鳥も
  いたいけな情け、みちてます。
  
  いかに泰子、いまこそは
  暮るる籬や群青の
  空もしづかに流るころ。      (後略)

素直に読めば、泰子との関係の修復を感じさせる、どこか喜びに満ちた詩だ。ただ、これもうろ憶えだが、当時の友人たちの記憶では、この作品の頃に中也と泰子が寄りを戻したというようなことはなかったというのを、誰かのエッセイで読んだ記憶がある。

とは言え、詩人がこういう作品を書くのに、二人の関係の改善は1日でも、あるいは数時間でも構わない、あるいは中也の一方的な勘違いであっても、この作品は成り立つと言えるだろう。

この作品は、やはりそういう詩であって、詩集「山羊の歌」の中では、ちょっとだけ異色作と言えるかも知れない。何となく救われる感じがある。そして、この詩もまたリフレインが多用された、音楽的なところのある詩だ。

昔は、それなりに好きな詩ではあったが、ベスト10に入る作品というわけではなかった。詩集「山羊の歌」の中では、もっと激しく・悲しい恋愛詩に惹かれたものだ。だが、いまは一篇だけ中也の詩を選ぶとしたら、あるいはこの詩をあげるかも知れない。

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