2006年7月17日 (月)

映画「ブレイブ・ストーリー」

ブレイブ ストーリー (Blu-ray Disc) 家族で、映画「ブレイブ・ストーリー」を観る。人気作家・宮部みゆき原作のアニメ映画だ。

映画館を出て、しばらくしてから、子どもが急にすすりあげ始める。思い出すうちにじわっと来たらしい。この「じわっと」というのがこの映画の魅力を語っている、とぼくには思われる。ひと言で言えば、これはそういう映画だ。

子どもは映画のパンフレットも買ったようだが、ぼくはまだ見ていない。ついでに(最近は読書量も少なくて)原作も読んでいない。まっさらな状態での感想を綴ってみよう。

ある程度の長さと密度と時間を持つ小説を映画にする場合、たぶん制作者がまず直面する課題のひとつは、何を伝えるか、そのために何を犠牲にするか、ということだろう。この課題に誠実に向かい合っているかどうかは、おそらく出来上がった映画を観れば分かる。映画として成功するかどうかは別の問題だとしてもだ。

この映画は、明確な判断を下した上で作られたのだろうと思う。映画としての完成度や整合性や緻密さといったものをある程度犠牲にしても、何を伝えるかというメッセージの部分はゆるがせにしていない。思い切ったやり方だ。その分、確かに前半から中盤にかけては「緩い」部分もある。説明不足だし、数多くあるはずの伏線もたぶん捨て去られている。

だが、ラストのメッセージは明確であり、そこに、観客が途中の物語を想像して補填するだけの手掛かりはきちんと映像化されている(それは、制作者側がある程度きちんとこの物語を理解しているからだと思われる)。観客は、怒濤のようなラストを観ながら、あるいは映画の終わった直後に、思いきって切り捨てられたエピソードの「エキス」の部分を、想像し、補填し、物語のすべてを組み立て直すことになる。そこに「じわっと」くるものが生まれるのだ。

これは、たぶんに観る側に「物語の経験」と「想像力」を強いる映画だ。しかし、この長丁場の物語を、2時間前後の映像に移し替える方法はこれ以外になかったに違いない。いや、あったかも知れないが、制作者側の判断は、これはこれで正しかったのだとぼくは思う。

あるいは「面白くなかった」と切り捨てる観客も多いかも知れない。そういう感想も生まれそうな映画だ。原作を読んだことのある観客の判断も2つに分かれるかも知れない。これは、ある意味、「映画館で一度だけ観る」ことに賭けられた映画だ。そこには、いい加減さでなく、潔さがある。

名作とは言われないかも知れないが、これは優れた収穫のひとつだろう。多くの人に映画館で観て欲しいと思う。

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2006年7月 1日 (土)

チャップリン「独裁者」最後の演説(全文)

   すまない。私は皇帝になりたくない。
   支配するよりも人々を助けたい。
   ユダヤ人も黒人も白人も、人類とはお互い助け合うもの。
   他人の不幸よりも幸福を望み、憎しみ合うべきではない。
   地球には全人類を包む豊かさがある。
   自由で美しくあるべき人生は貪欲により汚され、
   憎悪が世界を覆い、流血と惨めさが残った。
   スピードが自由を奪った。
   機械により貧富の差が生まれ、
   知識を得た人類は優しさをなくし、
   感情を無視した思想が人間性を失わせた。
   知識より大事なのは思いやりと優しさ。
   それがなければ機械も同然だ。
   航空機やラジオは世界を縮め、それは人類の良心に呼びかけ
   世界を一つに導くことができる。
   私の声は世界中に響き、絶望の淵にいる人々へ届く。
   彼らは支配体制の無実の犠牲者である。
   人々よ 絶望してはならない。
   貪欲にもたらされた荒廃も、人類の発展を憎む心も、
   独裁者の死とともに消滅する。
   民衆は権力を取り戻し、自由は再び人々の手に!
   兵士よ 良心を失うな!
   独裁者に惑わされるな!
   君たちは支配され、まるで家畜のごとく扱われている。
   彼らの言葉を信じるな!
   彼らには良心も人間性もない!
   君たちは機械ではなく、人間なのだ!
   人を愛することを知ろう。
   愛があれば憎しみは生まれない。
   兵士よ 自由のために戦うのだ!
   神の王国は人間の中にある。
   君の中にも! 人々の中にも!
   すべてを創造する力は君たちの中にあるのだ!
   自由で希望に満ちた世界を!
   民主主義の名のもとに一つに団結しよう!
   新しい世界のために戦おう!
   雇用や福祉が保証された世界のために!
   独裁者たちも同じことを言った。
   だが口先だけで約束を守らなかった。
   彼らは思いどおりに人々を操った。
   約束を果たすために戦おう!
   世界の解放のため、国境を越え、
   愛のある世界のために戦おう!
   良心のために戦おう!
   科学の進歩が全人類を幸福に導くように。
   兵士よ 民主主義のために団結しよう!

   ――ハンナ、聞こえるかい?
   顔を上げるんだ。
   雲が晴れていく。
   太陽が輝き、あたりを照らし始めた。
   人類が新しい世界に。
   そこには貪欲も憎悪も野蛮さもない。
   見上げてごらん。
   人類の魂には翼があったんだ。
   いま飛び始めた。虹の中にも飛び始めた。
   未来の希望の光に向けて。
   希望に満ちた未来が我々人類のもとに。
   だから上を見上げてごらん。
   だから上を見上げてごらん。

独裁者 コレクターズ・エディション チャップリンの映画「独裁者」の、有名すぎるほど有名なラストシーンの演説の全文です。
DVDをコマ送りしながら、書き起こしてみました。

アメリカのブッシュ大統領と日本の小泉首相が両国のリーダーであったこの数年は、いわゆる「理想」というものがひどく貶められた時代であったような気がしてなりません。
「理想」という言葉でまず最初に思い出すもののひとつが、このチャップリンの「演説」です。
1940年頃、太平洋戦争もまだ始まっていない、言わば、ヒットラーの「全盛期」とも言えたこの時期に、当時、すでに若くはなく、ある程度の成功者ですらあったはずのチャップリンが、このような映画を敢えて制作し発表した心情と勇気とを想像すると、ぼく自身が年齢を重ねるほど、この演説は心に沁みてくるように思われるのです。

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2006年6月25日 (日)

映画「デスノート」前編

映画「デスノート」前編。今回の選択は子どもの希望だ。ウチの子は原作は読んでいないようだが、学校で話題になっているのだろう。これ迄こういう話題にはどこか超然としたところのあった子なので、これはいい傾向かも知れない。結構面白かったらしく、帰りの車の中でもしきりに話題にしていた。11月の後編もたぶん観に行くことになるだろう。

ところで、原作のマンガ(週刊少年ジャンプ連載)は、ぼくは途中までは読んでいた。なかなかよく出来た話で、実際に十分に面白いのだが、それでも「続きが(あるいは結末が)気になって、読み続けずにはいられない」という気持ちはあまり湧かなかった。

それを読んでいるときは十分に面白く、目の前に放り出されてあればたぶん続きを読むのだろうけど、どうしても読むまずにはいられないというわけではないという、変な異和感。これは、ぼくの「好きなマンガ」に対する感じ方ではなかった。

今回、映画を観ていて、この原作マンガに感じていたような「異和感」が、まったく忠実に再現されていて、と言うか、まったく同じように感じられて、内心驚いてしまった。これは何なのだろう。風呂に入りながら考えてみた。

結局、これはマンガ「デビルマン」のような「悲劇」ではないということなのだ。「デスノート」という作品の本質は、一種の「シミュレーションゲーム」、あるいは「そのノベライズ」なのではないか。

ライトとエルという主要な対立するキャラクターがいる。だが、この2人は、実はどちらがどちらの立場になっても構わない。さらには最終的にどちらが勝者になっても敗者になっても構わないのだ。その経過が、そのやりとりが、そのシミュレーションの精緻さが、面白く興味深いものになりさえすれば、基本的にはそれでいい、というのが、実は「デスノート」という作品なのである。

おそらく後編の結末は原作マンガ版とは異なるものになるではないか。それは面白いものでありさえすれば、観客からは支持されるだろう。それが「デスノート」の映画化という、本来のあり方でさえあるかも知れない。

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2006年6月11日 (日)

映画「ダ・ヴィンチ・コード」

ダ・ヴィンチ・コード デラックス・コレクターズ・エディション 映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観る。子どもの強い希望だ。ぼくは「インサイドマン」か「花よりもなお」が観たかったのだが、まぁ仕方がない。
いろいろと前評判を耳にした映画だが、思ったよりも良かった。たぶん原作が未読ということがその理由のひとつだろうが ~ 原作と映画の問題はいろいろあるので深入りせずに ~ 悪くはないと言っていいのじゃないだろうか。

とは言え、キリスト者でない者の受ける衝撃度はやはりずっと小さいだろうし、たぶん(小説ではあるはずの)細かな傍証がないままの「秘密話」なので、説得力もさほど強くはない。だいたい「ダ・ヴィンチ・コード」なのに「ダ・ヴィンチ」の露出が少なすぎるよ、と思い返すと不満な点もないことはないのだが、これは仕方ないだろうな。

「秘密話」に焦点を絞るなら、たぶんドキュメンタリー形式の方が相応しかったろう。この映画は、そうではないミステリであり、娯楽作品なのだ。これよりずっとひどい、致命的な欠点を持つ作品だって少なくない。この作品の映画化の難しさを考えれば、健闘したと言っていいように思う。

子どもも結構気に入っていた。(でも、どのあたりまで理解できていたのだろうか)

嵐去りて天気雨漏る磔刑の十字架のみの丘の翌日

ところで、ぼくの「イエス像」や「キリスト教観」は田川建三氏の著作の影響が強い。いつか子どもにも勧めてみたいと思うのだが、いつのことになるだろう。

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2005年3月25日 (金)

映画「シャーク・テイル」

シャーク・テイル スペシャル・エディション 「シャーク・テイル」。子ども優先の春休みモード映画ですが、相変わらず、かの国は、こういうアニメを作るのがうまい。そつがない。確かに大傑作とまでは言えず、また、こういうCGアニメの新鮮さも少しづつ薄れてきていて、ただ観ているだけでワクワクするような感じはもうあまりないのだけど、緩急をわきまえたストーリーは飽きるというようなこともなく、上映時間いっぱいは楽しめたなという満足感はある。さすが。

ただ、ストーリーで、どうしても頷けないのは最後の方。ベジタリアンで、他の魚を食べられないという(親父サメ世代の価値観とは当然相容れない)息子ザメの「少数派」としての生き方を、親父サメが容認するところまでは、まぁ今はそういう時代だよなという感じであまり責める気はしないのだが、この時点で、親分サメをはじめ、ファミリーの全サメが自らの生き方を「変節」させてしまうのは、やはりあまりにも「お気楽」すぎ。確かにここを突っ込むと微妙に娯楽映画の枠をはみ出してしまうのだろうが、だからってなぁ。この部分は、やはり映画の「肝」のひとつだし──。ディテールでうまくごまかしているが、大枠の設定にはちょっと無理があったかなというところか。それでも大きく「破綻」させないのが、うまいと言えばうまい。

子ども同伴なので、この手のアニメは「吹き替え」。とは言え、ここ数年英語教室に通っている子どもの方がすでにヒヤリングは上だ。ただ、子どもはまだ字幕を読むのが(読む速度は問題ないものの)気が散るらしくて苦手らしい。それでも「ヴァン・ヘルシング」とかの「観たい映画」であれば、字幕であっても観ようというふうにはなってきた。ここらももう少し。

それでも、最近のこの手のアニメは、話題づくりの意味もあるのだろうが、吹き替えの声優陣に人気タレントとかベテラン俳優とかを起用していて、それなりに楽しめる。

主人公オスカー役は、SMAPの香取慎吾。嫌いな俳優ではないのだが、スマスマとかで見せる香取の「ベースキャラ」とオスカーの「キャラ」がダブりすぎ。演じる役としてのオスカーより、香取自身のキャラが前面に感じられて、特に最初の方は違和感が残った。それでも後半は次第に気にならなくなったので、ぼくの気のせいもあるかも知れないが。

逆に、最初はそうでなかったのに、どんどん「声優」の存在感が増してきて、それがちっとも不快でなく、むしろ「お見事」とうなってしまったのが、サメファミリーのドンを演じた松方弘樹。最後は、親分サメの眼のあたりの表現が、実際の松方の眼とダブって感じられたほど。うまいなぁ。松方は「顔が濃すぎる」ところがあって、普通の映画では色がつきすぎてダメなのだが、声優というのは案外合うのかもしれない。

映画の後で、妻は「小池栄子が案外良かったね」と感想を言っていた。妻がこんなふうに女優を誉めるのはめずらしい。この感想はちょっと虚をつかれた感じ。やはり目の付けどころが違う。このことも面白かった。

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2005年3月10日 (木)

映画「ローレライ」

ローレライ スタンダード・エディション 2月は家族が順番にインフルエンザに倒れてしまったので、やや久しぶりの映画。妻の強い希望で公開されたばかりの「ローレライ」に。

小5の長男は最初「う~ん」という顔だったが(いかにも「戦争もの」というイメージだものね)、「この映画の監督って、平成『ガメラ』シリーズで特撮を担当していた人なんだって」のひと言で、俄然興味が湧いてきた様子。まぁ、それでこそ物心つく前から「ウルトラマン」などの特撮ものに親しませてきた甲斐があったというもの。「作り手の情報」に反応するというのもなかなかいいかも知れない。

さて、映画「ローレライ」である。公開前からテレビなどで、CGやそれに絡めた監督の経歴などが数多く紹介されていたが、そんなふうにCGばかりが話題になるのは、この映画にとっては、あるいは不幸なことかも知れない。映画を観た限りではCGはそれほど突出しているという印象はなく、むしろ分をわきまえているかのように抑え目で、きちんと「ストーリーに奉仕するもの」としてあったように思われたからだ。この映画の優れた魅力は、たぶんそれとは別のところにある。

とは言え、この映画は、「SF的設定を生かした戦争サスペンス」であるのか、「戦争を背景にしたSFファンタジー」であるのか、これは結構難しい問題かも知れない。予告編や宣伝などからの印象では明らかに前者のように思われるのだが、どうもそうではない気がするのだ。

もし、「SF的設定を取り込んだ戦争サスペンス」として、相応のリアルさを期待してみると、この映画は、いわゆる「突っ込みどころ満載」になってしまう。

まず、肝心要の「ローレライ・システム」。超能力研究の偶然の産物として、こういう超能力者を「発見」することは出来るかも知れず、「感知」の部分までは可能かも知れないと思うのだが、そうして「感知」されたものを、誰もが見ることができるように「映像化」するシステムというのは(少なくともあの当時では)どうしたって不可能だろう。

また、このシステムが戦後の世界情勢に影響を与え得るとすれば、そういう「超能力者」を人為的に「生産」できなければ無意味である。ところが、その部分を映画はまったく説明していない。

さらに、このシステムが有効だったとしても、それだけで駆逐艦が密集した艦隊の防衛ラインを、あんなふうに突破するのは困難であろう(このあたり印象的にはまるで宇宙戦艦ヤマトである)。また少なくとも、当時の誘導装置のない魚雷で、あのようにスクリューだけを狙い撃てるとはとても思えない。

そして最後の最後、原爆を積んだ爆撃機の離陸のタイミングが1分早くても1分遅くても、あんな形での「撃墜」はできない。これはあまりにもご都合主義的にすぎると言われても仕方ないだろう。まして「出撃時間の情報」の信頼性自体が(ああいう入手経緯では)あまりにも低いと言わざるを得ない。

つまり、リアルな映画を前提として見てしまうと、「技術的」「ハード的」な部分で、どうにも納得しがたいところが多くなってしまうのだ。もっとも、先行して発行されている小説版の方は未読なので、あるいは小説版では、以上のような点もきちんと説明されている可能性もある。小説では、主要な乗組員の、乗艦するまでのそれぞれの前半生のエピソードなどもきちんと書き込まれているのだという。そんなふうに映画が小説の多くの部分を「はしょって」しまうのは、仕方のないことだし、もちろん、それが「必要」な場合だって、たぶん往々にしてある。

しかし、ここで思い出すのは、同じように「海洋」を舞台にしたSF映画で、映画制作と同時進行でノベライズもされた「アビス」である(これもまた、遠い未来ではなく、現代か、せいぜいごく近い未来が舞台だった)。著名なSF作家オーソン・S・カードによる小説版も、小説版「ローレライ」同様、主要な登場人物の前半生を描くことから始まっていた。そして、その小説版ではまったく「異和感」を感じなかったにもかかわらず、映画版の方では、ハードSF的な部分とファンタジー的な部分とがどうしてもうまく融合できず、あたかも木に竹を接いだような印象を最後まで払拭できなかった。これを、単に映画版の「説明不足のせい」と片づけるのは、しかし、やはりちょっと違う気がする。「映像」ゆえに伴う「困難さ」というのもあるのだろう。

今回の映画「ローレライ」も、この映画「アビス」と同じような困難さにつきまとわれたような気がしてならない。現代に近い時代設定で、海洋での人間ドラマを描けば、船とか潜水艦とか海底基地とかの「ハード」が舞台になる。そこを「リアル」に撮ろうとすればするほど、一方の「ファンタジー的」な要素がどこか浮き加減になってしまうのだ。これがもし「アニメ」だったとすれば、どうだろう。おそらく「気になる」度合いは半分以下になっていただろう。

では、映画「ローレライ」は良くなかったのか、と言うと、決してそうではない。欠点や突っ込みどころ(と思われる)何ヶ所かが気にはなっても、それにもかかわらず、十分に面白い映画だった。いや、それ以上だったかも知れない。

艦長役の役所広司のセリフに何度こみあげてくるものをこらえたことか。しかし、日本映画の戦争ものの艦長で、ここまで繰り返し自分の思想なり信条なりを、しかも滔々と語り得た艦長がほかにいただろうか? 「沈黙は金」ではないが、思慮深くはあってもどこまでも寡黙な人物というのが、これまでの日本映画における主役級の艦長の定番だったのではないだろうか。

いや、これは艦長だけではない。出てくる人物の多くが語りに語る。かつての日本映画の「行間で読め」みたいなトーンとはまったく異なる映画が「ローレライ」なのである。多くの登場人物が実に饒舌なのだ。しかもそのセリフが素晴らしい。

なかでも特徴的に思われるのが、堤真一演じる海軍大佐が、海軍首脳陣を軟禁し、戦争責任を曖昧にしたままの旧指導者層がなし崩し的に戦後の指導者にシフトしていこうとする姿勢を批判する「厳しい調子の長セリフ」である。だが、ここには「制作者サイドの政治的な含意」みたいなものは微塵も感じられない。これは、完全に、見事に「エンターテインメント映画」の一要素としての「セリフ」としてのみ響いてくるのだ。

映画「ローレライ」は、多少の欠点(らしきもの)はあっても、決して全体のバランスをこわしてはいない。日本産の「エンターテインメント映画」として、最後までバランスを失うことなく、かなりのレベルまで「ハリウッド・テイスト」に近づけた秀作だったのではないだろうか。

この監督の次回作をみてみたいと思う。

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2005年2月 6日 (日)

映画「カンフーハッスル」

カンフーハッスル 観ました! 「カンフーハッスル」。ぼくと息子はかなり前から「観たいね」と話していたのだが、妻がいまひとつ気に入らない様子で、仕方なくほかの映画を優先してきた。ところが、先日たまたま観たい映画のどれもがその時間どこもやっていないというのがあって、ついに妥協が成立したという次第。

大分のような地方だと、人気がないとさっさと打ち切られたり、早朝や夜の上映だけになって、見逃す映画も少なくない(まぁ「カンフーハッスル」は、そのおかげで観られたわけだが…)。もちろん、現在はそれでもかなり良くなってきた方で、故郷の鹿児島などは、まだ大分に比べても「今ひとつ」という状況が続いていると思われる。

で、その「カンフーハッスル」だが、これもなかなか面白かった。
ん~、アニメ「ドラゴンボール」を実写で作って、香港映画のバタ臭さみたいなものをたっぷりまぶしたら、こうなるかなぁという映画。笑いどころもたっぷりで、ぼくと息子は声を出して笑ってしまっていた(妻は笑いをこらえているような、困惑しているような、呆れかえっているような、そんな顔だったが)。

とにかく、次々に展開するシーンというシーンが、どこかで観たような・読んだような既視感の連続。そこらへんの市井のおじさん・おばさんがやたら強かったり、何らかの事情を抱えていたりというのは、何だろう、ひと昔前の剣豪小説か何かの感じかなぁ。次々により強い(桁違いの強さの)人間が出てくるのは、少年ジャンプ的強さのインフレ状況の再現だし、最強の敵がとある収容所の最深部に幽閉されているというのは、最近のSFアニメ(漫画)でよく見る場面だ。実は主人公は人並みはずれた特別な才能を持っていたというのも、「ドラゴンボール」の悟空がサイヤ人だったというのとあまり変わらない。
これらのごちゃまぜ・ごった煮的エネルギーを恥ずかしげもなく次々に繰り出してくる「ふてぶてしさ」は何だろう。ある意味すごい映画だなぁ。

ところで、パンフレットを見ていて驚いたことがひとつ。これが(上海が魔都と呼ばれていたような)さきの大戦前のことでなく、「文革」前の中国を時代背景にしているということだ。う~む、もちろん、きちんと時代考証しているような映画ではないだろうが、これってどの程度本当なのだろう? 1949年以後の(共産党によって統一された)中国というのも、そんなに急速に全土が共産化されたというわけではないのだろうか? 無知をさらすみたいで恥ずかしいが、「文革」以前の中国に対するイメージが揺らいでしまった感じだ。知らないことをまたひとつ思い知らされしまった…。何か本がないか探してみよう。

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2005年2月 1日 (火)

映画「ネバーランド」

ネバーランド ひと言で言えば「静謐な感じ」のする映画。学生時代からそういう映画は嫌いではないのだが、家族で行くなると、正直「どうしようか」と考えてしまうのも事実。妻も、たぶん観ないわけではないが、積極的にということではなさそうだ。少なくとも小5の息子は退屈しそうだなと心配していたのだが、「ピーターパンの誕生秘話」という1点で、何とか関心が続いたようだ。ありがたい。とは言え、幻想シーンと現実が頻繁に切り替わる場面がかなりあって、どこまで理解出来ていたかは怪しいところ。映画の後で聞いた限りでは「わかった。面白かった」と言っていたので、それなりに好い印象ではあったらしいのだが。

ところで、ぼくは「泣かせる映画」があまり好きではない。実は自分が結構涙もろいということが嫌なのだ。高校時代「さらば宇宙戦艦ヤマト」を観たときのことだが、一緒に行った友人がこっそり録音していたカセットに、しっかりぼくの嗚咽が入っていたのには参った。ちなみに「自分は涙もろい」というのを自覚したのは、若かりし日の大竹しのぶが演じた「愛と死を見つめて」を観たときだったような気がする。それ以来、ぼくは、特に「難病」ものは頑として避けて通ることに決めている。

この「ネバーランド」は、演出のやりようによっては、いくらでも「盛り上げられる」素材を扱いながら、最後に近いクライマックスのシーンでもかなり抑制された描写を貫いていて、号泣を誘うというより胸にじ~んとくる程度におさめていた。この点で非常に好印象でポイントが高い。

だが、全篇にわたって抑制を利かせた物語の中で、少しばかりう~んと思ったのが、4人の子どもたちの母親の性格と、その母親と主人公との心の交流(恋愛感情?)といったものの描き方だった。子どもを介しての男女の恋愛と言えば、例えば「刑事ジョン・ブック」なども浮かぶが、これは、なかなか難しい気がする。この母親、夫に先立たれ、4人の子どもを一人で育てていて、つまり、はっきりと「育児疲れ」の母親でありながら、同時に主人公が彼女に惹かれていくのを観客に納得させるだけの「魅力」を漂わせていなければならず、その上で、次第に(自身の感情に戸惑いながらも)主人公に惹かれていくという感情の機微までをきっちり表現しなければならないという、なかなか難しい役どころであって、演出のしどころでもあったはずである。が、ここらあたりもかなり(極度に?)抑制されたエピソードの連続で、伝わりにくいと言えば伝わりにくい(実際のところ、この二人は本当に惹かれ合っていたのかどうか、はっきりとは分からない)。ただ、ここらを突っ込んで描いて「破綻」するよりは、この映画の「抑えるという選択」がずっとマシだったのは間違いないところで、ぼくのなかでは「ベスト」とは言い切れないものの、「ベター」ではあったと思われる。総合点で言えば疑いなく「当たり」の映画である。

もう1点。こういうストーリーで「静謐な」味わいの映画だと考えてしまうのは、DVDでなく、映画館のスクリーンで観るべき価値があるかどうかという点である。この映画については、重要な舞台となる「公園」の風景(背景の「緑」の奥行き感など)の描き方、独特な冴えを見せる(が決して奇矯な感じのしない)カメラのアングルなど、見るべきところは多かったような気がする。やはり映画館で観られて良かった。

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2005年1月26日 (水)

映画「ポーラー・エクスプレス」

ポーラー・エクスプレス 「ポーラー・エクスプレス」。映画館の予告編で見ていて気にはなっていたものの、個人的には少しリアルの方に傾いたCGに違和感もあって、年末・年始は「ウルトラマン」(これも良かった!)「Mr.インクレディブル」などを優先。その後、年明けも数日を過ぎると、大分ではもう1館しかやってなくて、実を言うとぼくのなかでは「見送り」のつもりだったのだが、いくつか候補をあげてどれにしようかという家族会議(そんなおおげさなもんじゃないけど)のとき、息子の「これ!」という鶴の一声で、あっさり観ることに決まった。

で、どうだったかと言えば、すっかり息子に感謝することになった。これは、なんと言っても、ちゃんと映画館で観るべき映画で、大スクリーンで観られて本当に良かったと思う。DVDも出たらたぶん購入。じっくり繰り返して細部を確認しながら見直すのを、息子ともども楽しみにしているぐらいだ。

予告編で違和感を感じたリアル系のCG、特に人物の顔の表現も、いざその世界に入ってしまえば、それほど気にならなかった。
それ以上に丁寧に描かれたCGの出来に感嘆した。たとえば、夜の吹雪の雪ひと粒ひと粒の表現。これは結構圧倒的だった。それから蒸気機関車の内部の表現─。

ぼくの小さい頃の鹿児島は、まだ現役だった蒸気機関車が走っていて、窓を開けていたら、いきなりトンネルになってゴホゴホ…なんてのも実際にやった記憶がある。客車の内部は木製で、座席と背もたれの、あの布のようなフェルトのような素材は何て言うのかよく分からないが、あの独特の質感。それがきちんと伝わってきて、何だか嬉しくなってしまった。そして木の肌の部分には、蒸気機関車だから、当然、石炭のススがついていて、それを人がさわったり、もたれたり、荷物を置いたりしているうちに、染みのようになってしまっている、あの感じ。それが実に丁寧に書き込まれていたのには心底驚いた。そういう部分を見るだけでも、この映画は価値があると思う。

もちろん、リアル系方向のCGは、これからもどんどん進化していくに違いなく、数年のうちには陳腐ということになってしまうかも知れないのだが、いま、この映像を、映画館の大スクリーンで観られたことは素直に喜びたい。

ところで、これって「銀河鉄道の夜」のマネじゃないか(空を飛ぶわけではないけど)という思いもあったし、事実、それを思わせる描写もあったように思われた。実際、途中で、ますむらひろしの猫キャラで作られたアニメ「銀河鉄道の夜」を思い出したりもした。「夢オチ」的な終わり方も一緒だと思う。

もちろん、「銀河鉄道の夜」が人の不幸や悲しみの方に天秤が傾いているのに比べ、明るい一方ではないものの、こちらのベースはハッピーエンドだ。そういう違いはある。しかし、結局、面白い民話なり伝説なりが、語り継がれるうちに変わったり、作り替えられたり、面白いところだけつまみ喰いされたり、そうして、その時代時代の人に愛されていく、そういうものかも知れないという気がしてきた。とにかく、この映画は「当たり」だった。今年は結構、映画運がいい。

それから、さすがCGだなと思ったのがもう1点。この映画、年明けの大分では吹き替え(日本語版)しかなかったのだが、何と、映像の中の「文字」の一部が「日本語」に差し替えられているのだ。これがDVDではどうなるのだろう? ~という話題で家族は盛り上がった。
音声(日本語・英語)を選択すると、それによって映像も変わるのか? ──どうだろう。無理なような、変わったらすごいような… 今からDVDの出るのが楽しみなのだが、さて…。

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2005年1月 6日 (木)

映画「ターミナル」

ターミナル DTSスペシャル・エディション 決して「軽い」映画ではないが、あまり「深刻に」見てもいけない。もちろん後味は悪くはない。繰り返し見ようとまでは思わないが、見ればそれなりの感銘がある。「小品」として「上質」な部類に入るのではないかと思う。

前宣伝にあるとおり、機上にあるうちに祖国が内戦状態となって、そのために(アメリカの詳しい法律の内容は分からないが)入国も帰国も出来ず、いつまで、という見通しもないまま、飛行場内で暮らさざるを得なくなった男の話。

こんな「悲惨」な状況はそうそうないと思うのだが、淡々とした主人公の感情描写と、どこかおとぎ話めいた展開とで、いつか「あり得ない特別な話」としてではなく、誰もが人生の一時期に過ごすかも知れない「不遇・不運のエピソードのひとつ」として、見る方も余計な感情過多に陥ることなく、静かに映画の筋を追っている ~ という感じになる。後で考えると、結構不思議な味わいだ。

前宣伝や予告編で「恋愛映画」的な要素を頭に置きすぎると、ちょっと肩透かしを喰らう感じもあるかも知れない。恋愛もあるにはあるが「どこかおとぎ話めいた展開」のひとつに過ぎない。また「約束」の内容にも期待しすぎてはいけない。こちらにも映画の主題はない。

お正月休みの最後の映画として、これも家族揃って見た。10歳の長男は「面白かったよ」と言っていたが、どこまで理解しているかは分からない。が、ぼくが同じくらいのときに、小学校の体育館で見た「黄金狂時代」よりも分かりやすかったのではないかと思う。

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2005年1月 4日 (火)

映画「Mr.インクレディブル」

Mr.インクレディブル 今年初めて家族で見た映画。家族というのは2歳違いの妻と今年11歳になる長男。昨年ぐらいから子供が特撮やアニメ以外の映画も見てくれるようになって家族で見る映画がだいぶ増えた。いや、子供抜きで映画を見に行くというのは稀れなので、正確に言うと、単純に映画館に見に行ける映画が増えた。が、正月初めの映画は「とりあえずアニメ」。これはまぁしょうがない。

ほとんど映画のチラシとテレビのCM程度の予備知識しか持たずに見た「Mr.インクレディブル」だが、後でパンフレットを見ると、監督のブラッド・バードというのは、以前にアニメ映画「アイアン・ジャイアント」(1999)を撮った監督らしい。この「アイアン・ジャイアント」というのは良く出来た映画で、子供が初めて号泣したアニメだった。それを記念して(?)わが家ではちゃんとDVDも買ってある。

今回はまぁ泣くような映画ではなかったものの、しっかり楽しめた。ピクサーの映画はどれもそうだが、ストーリー展開のためだけにあるような中ダルミするようなシーンもなければ、同じテンポが続いて飽きが来るようなこともほとんどない。それよりも今回、製作総指揮を担当したジョン・ラセターという人と、監督のブラッド・バードとは学生時代からの知り合いらしく、ラセターが「うち(ピクサー)で仕事をしてみないか」とブラッドを誘って、出来た映画が今回のものらしい。学生のときに同じ夢を語り合った友人が、それぞれに成功した後、同じ仕事を手がけるというのは、なかなかうらやましい話だ。そう言われると、そういう昔なじみが楽しみながら作ったという雰囲気が全篇にあふれているような気もする。とにかく、見て損はない映画だ。

気になったのは、主人公ボブの勤める保険会社の上司。どうも日本人をデフォルメしたようなキャラクターに思えてしかたなかったのだが、あれは「イッセー尾形」に違いないという気がしてきた。本当のところはどうなのだろう。それから、主人公一家のコスチュームをデザインしたデザイナー・エドナ。こちらは「ごはんですよ」のCMキャラクター(三木のり平ですね)を女装させて、ピクサーのキャラクター化したら、きっとこんなになるなという感じ。この二人、どこかで見たようなキャラクターとして心に残ってしまった。

声優は、主人公夫婦が三浦友和と黒木瞳。パンフレットを見るまで全然気がつかなかった。最近のアニメの吹き替えは誰がやっているかというのを前宣伝することが多いが、できるなら知らないで見るのが望ましい。今回は単にぼくが気がつかなかっただけかも知れないが、それはそれでラッキーだった。もし、あまり宣伝していなかったとすれば、エライ!とほめたいところだ。「ハウルの動く城」もキムタクをふせておけば良かったのに…。

ストーリーは、基本的にはスーパーヒーローがその超能力を使うことを禁じられたらというシチュエーション・コメディ。その展開はまったく見事だが、それだけと言えばそれだけ。ただし、最後が「家族が力を合わせること」に行き着くところはどうなのだろう。偏った考え方をすれば、現在のアメリカの行き詰まり感を象徴しているということも言えるかも知れない。もちろんそれが悪いわけではないが、いまそういう結論で物語を作るという意味は何だったのか。1999年に「アイアン・ジャイアント」を作った監督だけに、無粋を承知で言えば、もうちょっと別なストーリーを期待したかったところだ。

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