2月は家族が順番にインフルエンザに倒れてしまったので、やや久しぶりの映画。妻の強い希望で公開されたばかりの「ローレライ」に。
小5の長男は最初「う~ん」という顔だったが(いかにも「戦争もの」というイメージだものね)、「この映画の監督って、平成『ガメラ』シリーズで特撮を担当していた人なんだって」のひと言で、俄然興味が湧いてきた様子。まぁ、それでこそ物心つく前から「ウルトラマン」などの特撮ものに親しませてきた甲斐があったというもの。「作り手の情報」に反応するというのもなかなかいいかも知れない。
さて、映画「ローレライ」である。公開前からテレビなどで、CGやそれに絡めた監督の経歴などが数多く紹介されていたが、そんなふうにCGばかりが話題になるのは、この映画にとっては、あるいは不幸なことかも知れない。映画を観た限りではCGはそれほど突出しているという印象はなく、むしろ分をわきまえているかのように抑え目で、きちんと「ストーリーに奉仕するもの」としてあったように思われたからだ。この映画の優れた魅力は、たぶんそれとは別のところにある。
とは言え、この映画は、「SF的設定を生かした戦争サスペンス」であるのか、「戦争を背景にしたSFファンタジー」であるのか、これは結構難しい問題かも知れない。予告編や宣伝などからの印象では明らかに前者のように思われるのだが、どうもそうではない気がするのだ。
もし、「SF的設定を取り込んだ戦争サスペンス」として、相応のリアルさを期待してみると、この映画は、いわゆる「突っ込みどころ満載」になってしまう。
まず、肝心要の「ローレライ・システム」。超能力研究の偶然の産物として、こういう超能力者を「発見」することは出来るかも知れず、「感知」の部分までは可能かも知れないと思うのだが、そうして「感知」されたものを、誰もが見ることができるように「映像化」するシステムというのは(少なくともあの当時では)どうしたって不可能だろう。
また、このシステムが戦後の世界情勢に影響を与え得るとすれば、そういう「超能力者」を人為的に「生産」できなければ無意味である。ところが、その部分を映画はまったく説明していない。
さらに、このシステムが有効だったとしても、それだけで駆逐艦が密集した艦隊の防衛ラインを、あんなふうに突破するのは困難であろう(このあたり印象的にはまるで宇宙戦艦ヤマトである)。また少なくとも、当時の誘導装置のない魚雷で、あのようにスクリューだけを狙い撃てるとはとても思えない。
そして最後の最後、原爆を積んだ爆撃機の離陸のタイミングが1分早くても1分遅くても、あんな形での「撃墜」はできない。これはあまりにもご都合主義的にすぎると言われても仕方ないだろう。まして「出撃時間の情報」の信頼性自体が(ああいう入手経緯では)あまりにも低いと言わざるを得ない。
つまり、リアルな映画を前提として見てしまうと、「技術的」「ハード的」な部分で、どうにも納得しがたいところが多くなってしまうのだ。もっとも、先行して発行されている小説版の方は未読なので、あるいは小説版では、以上のような点もきちんと説明されている可能性もある。小説では、主要な乗組員の、乗艦するまでのそれぞれの前半生のエピソードなどもきちんと書き込まれているのだという。そんなふうに映画が小説の多くの部分を「はしょって」しまうのは、仕方のないことだし、もちろん、それが「必要」な場合だって、たぶん往々にしてある。
しかし、ここで思い出すのは、同じように「海洋」を舞台にしたSF映画で、映画制作と同時進行でノベライズもされた「アビス」である(これもまた、遠い未来ではなく、現代か、せいぜいごく近い未来が舞台だった)。著名なSF作家オーソン・S・カードによる小説版も、小説版「ローレライ」同様、主要な登場人物の前半生を描くことから始まっていた。そして、その小説版ではまったく「異和感」を感じなかったにもかかわらず、映画版の方では、ハードSF的な部分とファンタジー的な部分とがどうしてもうまく融合できず、あたかも木に竹を接いだような印象を最後まで払拭できなかった。これを、単に映画版の「説明不足のせい」と片づけるのは、しかし、やはりちょっと違う気がする。「映像」ゆえに伴う「困難さ」というのもあるのだろう。
今回の映画「ローレライ」も、この映画「アビス」と同じような困難さにつきまとわれたような気がしてならない。現代に近い時代設定で、海洋での人間ドラマを描けば、船とか潜水艦とか海底基地とかの「ハード」が舞台になる。そこを「リアル」に撮ろうとすればするほど、一方の「ファンタジー的」な要素がどこか浮き加減になってしまうのだ。これがもし「アニメ」だったとすれば、どうだろう。おそらく「気になる」度合いは半分以下になっていただろう。
では、映画「ローレライ」は良くなかったのか、と言うと、決してそうではない。欠点や突っ込みどころ(と思われる)何ヶ所かが気にはなっても、それにもかかわらず、十分に面白い映画だった。いや、それ以上だったかも知れない。
艦長役の役所広司のセリフに何度こみあげてくるものをこらえたことか。しかし、日本映画の戦争ものの艦長で、ここまで繰り返し自分の思想なり信条なりを、しかも滔々と語り得た艦長がほかにいただろうか? 「沈黙は金」ではないが、思慮深くはあってもどこまでも寡黙な人物というのが、これまでの日本映画における主役級の艦長の定番だったのではないだろうか。
いや、これは艦長だけではない。出てくる人物の多くが語りに語る。かつての日本映画の「行間で読め」みたいなトーンとはまったく異なる映画が「ローレライ」なのである。多くの登場人物が実に饒舌なのだ。しかもそのセリフが素晴らしい。
なかでも特徴的に思われるのが、堤真一演じる海軍大佐が、海軍首脳陣を軟禁し、戦争責任を曖昧にしたままの旧指導者層がなし崩し的に戦後の指導者にシフトしていこうとする姿勢を批判する「厳しい調子の長セリフ」である。だが、ここには「制作者サイドの政治的な含意」みたいなものは微塵も感じられない。これは、完全に、見事に「エンターテインメント映画」の一要素としての「セリフ」としてのみ響いてくるのだ。
映画「ローレライ」は、多少の欠点(らしきもの)はあっても、決して全体のバランスをこわしてはいない。日本産の「エンターテインメント映画」として、最後までバランスを失うことなく、かなりのレベルまで「ハリウッド・テイスト」に近づけた秀作だったのではないだろうか。
この監督の次回作をみてみたいと思う。
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